写真植字とは?

写真植字(しゃしんしょくじ)を短縮した「写植(しゃしょく)」の方が多くの人にとっては耳なじみがあるかもしれません。写真植字は、印刷そのものの技法ではなく、文字組版の技術です。金属の鋳造による活字の代わりに、写真と同じく、レンズや印画紙を使って文字を組む技術です。

昭和時代のマンガの原稿に、セリフを印刷した紙片がフキダシに貼ってあるのを見たことがあると思います。それは、写真植字で印画紙に焼き付けた文字を手作業で切り貼りしたものです。マンガの世界では、パソコンからプリンタ出力したものも「写植」と呼ぶことがありますが、もともとの意味とは違います。

活字と異なり、文字詰めの調整、拡大・縮小、平体・長体などの変形が光学的におこなえることから、写真植字はグラフィックデザインに大きな影響をおよぼしました。コンピューター制御の電算写植機が登場すると、写真植字は広く普及します。1960~70年代は、サブカルチャーとの相互作用もあって、新たなタイポグラフィと書体デザインが花開いた時代です。

写真植字の原理

もっとも基本的な原理は、白黒ネガフィルムから印画紙にプリントする仕組みと同じです。

写真植字機(写植機)は、光源ランプ、文字盤、レンズなどから構成されていて、これに印字用の印画紙をセットして植字します。

複数の文字をネガの状態で1枚にまとめた文字盤から、文字を選びます。その文字に光をあてて、印画紙(場合によってはフィルム)にその像を写します。印画紙を少しスライドさせて、次の文字を焼き付けます。これを1文字ごとに繰り返します。ひとまとまりの文章を印字し終えたあと、印画紙を現像すれば完成です。

印画紙に写る文字の像は、レンズを調整して拡大縮小できます。これにより、ひとつの文字盤からさまざまな大きさで印字可能です。また、書体を変更したり、特殊な文字や記号を使うときは、文字盤を入れ替えます。

初期には1文字ずつ手動で植字していましたが、のちには電算写植機が登場して、自動化が進むとともに、柔軟性も高くなりました。

活字と写植との違い

活版印刷

活版印刷では、同じ文字の活字を複数用意しておく必要があります。また、文字の大きさごとにひとそろえの活字が必要です。そのための十分な保管スペースを確保しなければなりません。写真植字の登場で、活字に必要だった大きなスペースが1枚の文字盤に集約されました。

また、ひらがな、カタカナ、漢字と文字数の多い日本語では、活字棚を移動しながら原稿にどおりに活字を拾い集める工程は、「文選(ぶんせん)」という専門的な作業でもありました。これも、写植機の前から移動することなく文字を選べるようになったのです。

このように活版印刷に比べて、装置がコンパクトである点や必要な労力が削減された点、操作法の習得期間が短くてすむことなどが、写真植字の特徴です。

自動鋳造機と写真植字機

欧米では19世紀末に自動鋳造機が考案され、20世紀初頭に実用化されました。これは活字の鋳造と植字を同時に行える機械です。タイプライターのようなキーボードから入力されたテキストに応じて、活字が鋳造され自動的に組まれます。これによって、活字組版が大幅に効率化され、新聞・雑誌の発展に寄与しました。

この自動鋳造機の活字鋳造・植字を写真技術で置き換える新しい技術、すなわち「写真植字」の研究は、19世紀末から英国を中心におこなわれていました。20世紀初頭にはいくつかの特許が申請されましたが、実用化にはもう少し時間が必要でした。

日本での写真植字機開発と実用化

日本では、森澤信夫と石井茂吉が1924年に邦文写真植字機の特許を取得します。そして、1929年に第1号機が東京と大阪の大手印刷会社5社に納入されました。森澤信夫はのちに株式会社モリサワを創業し、石井茂吉は株式会社写研を創業しました。

日本での開発が欧米よりも先になった理由は、欧文組版では文字ごとに幅が異なるために印画紙の位置調整が難しかったのに対し、日本語の文字は正方形で幅が均一だったからだといわれています。

製品化が早かった日本の写真植字機ですが、広く受け入れられるには、1950年代にオフセット印刷が普及するのを待たなければなりませんでした。

手動から自動、そして光学式から電子式へと進化

フランス人Louis MoyroudとRené Higonnetが1949年に米国でルミタイプ・フォトン(Lumitype Photon)のプロトタイプを発表しました。その後、改良を重ね、1953年に写真植字だけで印刷された最初の本を世に送り出します。同時期に、Fotosetter、Linofilm、Monophotoといった製品も各社から発売されました。活字時代には工場で行われていた植字がオフィスで可能になっていきました。

1960年代に入ると、自動写植機が本格的に導入されます。鑽孔(さんこう)テープや磁気テープなどに打ち込まれたコードによって自動的に植字がおこなわれるようになりました。日本では写研が「SAPTON(サプトン)」システムを新聞社向けに開発しました。

60年代中期には、コンピューター制御による「電算写植機」が登場します。初期は手動写植機と同じく、文字盤が使われていました。CRT(ブラウン管)を使って露光するCRT写植機では、原字はデータ化されました。その後、CRTに代わってレーザーで印字する方式が開発されます。

写真植字技術の進化にともない、書体のデジタルデータ化や写植書体の開発が進みました。とくに日本語よりも文字数の少ない欧米では、写植書体がデジタルフォントの下地となり、1985年のDTP(デスクトップパブリッシング)登場に貢献します。

写植文字とグラフィックデザイン

写真植字は書体のデザインに新しい流れを作ります。活字鋳造では難しい細い線や形状でも、ネガにすれば印字できるようになりました。これによって、1960年代から80年代には、活字にはなかった新しい外観の書体が盛んに作られるようになります。また、変形レンズによって、もとの書体にはない長体・平体・斜体を印字することともできます。これは金属活字では不可能なことでした。

書体デザインと選択の自由度が増したことによって、グラフィックデザインにも大きな影響をおよぼします。また、文字をさまざまに変形させたり、字間を極端にせまくしたり、異なる書体や大きさの文字を組み合わせるなど、様々な表現が試みられました。

米国のグラフィックデザイナー、ハーブ・ルバーリン(Herb Lubalin)は、写真植字ならではの先進的なレイアウトとタイポグラフィでデザイン業界に大きな衝撃をもたらしました。

ルバーリンは、この時代を象徴する書体のひとつである「Avant Garde」(アヴァンギャルド)の生みの親でもあります。1970年にフォントベンダー「International Typeface Corporation」(ITC社)を共同設立しました。出版社やタイプセッターに書体をライセンス供給するというビジネスモデルを、世界で初めて実現したのがITC社でした。

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執筆・編集ASOBOAD編集部

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