英国人シェフを雇う不幸を笑うエスニックジョークを聞いたことがあるかもしれません。しかし、いまでは事情は少しちがいます。ロンドンでは、野心的なシェフたちによる、モダン・ブリティッシュ料理が、国内外のグルメを楽しませています。
ロンドンを拠点に活動しているKelsen Findlay 氏が手がけた飲食関連のブランディング例を紹介します。Findlay氏は、ザルツブルク応用科学大学(Fachhochschule Salzburg)とオークランド工科大学(Auckland University of Technology)でデザインを学びました。ニューヨーク、ロンドン、シドニーで経験と実績を積んだグラフィックデザイナーでイラストレーターです。
Findlay氏のデザインの特徴は、思い切りのよい判断にもとづいた、ストレートなアプローチといえます。大胆な選択と抑制の効いた、上品な表現です。レトロモダンな雰囲気も感じます。大声で叫ぶことなく、効果的にメッセージを伝えられることが、Findlay氏の作品からわかります。※記事掲載はデザイナーの承諾を得ています。(Thank you, Kelsen Findlay!)
オプ・アート風デザインで目を楽しませるドーナツショップのブランディング
オーストラリア出身のオーナーがカナダのトロントに開業した、コーヒーとミニ・ドーナツの店が「Cops」です。店名は「おまわりさん」の意味の「コップ」からとられました。映画などでも描かれているように、おまわりさんには、ドーナツとコーヒーがつきものだからです。昭和の警察官が張り込みするときは、牛乳とあんぱんが定番なのと同じですね。
オプ・アート風の幾何学模様で差別化
Findlay氏は、数多くあるドーナツの競合ブランドとの徹底的な差別化をはかりました。ドーナツの伝統的なパッケージデザインをすべて拒否したのです。Copsのドーナツの箱には、ゆらゆら動いているかのように見える、幾何学模様が描かれています。
1960年代に「オプ・アート」または「オプティカル・アート」と呼ばれるようになった、幾何学的な絵画があります。オプ・アートは描かれたパターンが揺れているかのような目の錯覚をさそいます。
その効果のおもしろさから、グラフィック・デザインでも取り入れられるようになりました。Copsのパッケージデザインは、このオプ・アートをうまくとりいれた作品といえます。
また、ボックスに印刷するテキストも、ほかには見られないユニークなものです。ボックスに大きくレイアウトされているのは、警察を意味する隠語の「Five-O」や、「煙の充満した部屋」「張り込み」「暴動」といったちょっぴり物騒なことばたち。ブランド名に沿ったアソビが楽しいです。
ドーナツといえばピンク
Copsのデザインは、オプ・アート風のパターンと、ビビッドなピンクが相乗効果をもたらして、強い印象をあたえます。ブランドのカラーパレットはピンクとパープルです。
Copsのブランディングにあたって、Findlay氏は、北米の伝統的なデザインをことごとく排除しました。しかし、ピンクだけは踏襲しました。実は、北米ではドーナツの箱の色は、ピンクが定番なのです。
過激なデザインの作用で消費者がいだくかもしれない違和感を、ドーナツと強く結びついた色だけは残すことで中和する、という冷静な判断があったのでしょうか。
なぜピンクがドーナツの箱の定番なのかは、カンボジア系移民が1970年代にカリフォルニア州で開業したドーナツショップがきっかけだったそうです。このエピソードについては、また別の機会に。
ひたすらタイポグラフィックなブランディング
ロンドンのモルトビー・ストリート・マーケットは、2010年にスタートして以来、食通が足を運ぶ注目のスポットとなりました。線路の高架下に、こだわりの店舗や屋台がひしめいています。
高架下の店舗は、もともとは資材を保管したり、作業をおこなうためのスペースでした。時代を感じさせるレンガとアーチが風情をただよわせています。
コンテナで始めた店のバージョン3.0
レストラン「Dandy」は2016年にロンドンのハックニー地区でスタートしました。最初は輸送用コンテナを店舗として使ったポップアップ・レストランでした。すぐにカルト的人気を得ます。
その後、実店舗でDandy 2.0として再スタート。オーストラリア出身のオーナーが3度目の移転先に決めたのが、人気エリア、モルトビー・ストリートでした。
店名と番地のタイポグラフィデザイン
Dandy 3.0のブランディングを依頼されたFindlay氏は、店舗の新住所をアイデンティティの核としました。
テキストは店名「Dandy」と住所「No. 35 Maltby Street, London(ロンドン モルトビー通り 35番)」です。採用したサンセリフ書体には、「N」「3」に少しクセがあります。大文字で4段に組んだテキストを、ひとつのフォーマットとして固定して、ビジュアル・アイデンティティにしています。
このビジュアル・アイデンティティを、ビジネスカードから、メニュー、店舗の窓、紙コップまで、同一フォーマットで展開。シャッターが閉じられると、そこにも同じ情報が同じレイアウトで大きく描かれています。店舗入り口の上部にある店名と番地も同じ書体です。
価値ある情報としてのロケーション
店に足を運ぶことが重要な業種があります。たとえば、レストランを訪れた客は、店の雰囲気と一緒に食事を楽しむのです。また、どのようなエリアの店であるのかという立地も店選びの重要な条件となります。食通にとって、ロケーションは大切な情報なのです。
また、Dandyの2番めの実店舗は人気のレストランとなりましたが、ある事情により閉店しました。Dandyの再開は、多くのファンが待ち望むところでした。Dandyバージョン3.0がオープンしたら、それはどこなのかはファンの知りたい情報なのです。
さらに、実際にレストランが再々スタートを切ったモルトビー・ストリートは、ひとびとの心をワクワクさせるホットなエリアでもあります。
あたらしいレストランを楽しんだ客はSNSをに写真をアップするでしょう。そこに写り込んでいるビジュアル・アイデンティティには、興味を持ったひとのための情報がきっちりと書かれています。つまり、あのDandy 3.0が、あのモルトビー・ストリートで営業しているという情報です。
計算されたミニマリズム
アイデンティティカラーのブルーも上品なカジュアルさで、店の雰囲気にマッチしています。店内のインテリアは、気取らない落ち着いた空間を演出しています。そこでは、ビジュアル・アイデンティティが必要以上に主張することはありません。
Findlay氏のブランディングは、一見すると、グラフィックな観点からミニマリズムを追求しただけのように思えます。しかし、レストランをとりまく環境をしっかりと踏まえたうえで、よく計算されたものであることがうかがえます。単なるグラフィカルなアイデアだけだったら、レストランオーナーを説得するのは難しいだろうと思えるからです。
Dandyがモルトビー・ストリートにオープンしたのは、2019年です。期待されたレストランだったのですが、COVID-19感染拡大を避けるロックダウンなどの影響により、残念ながら2021年に閉店し、多くのひとに惜しまれる結果となってしまいました。
実験的ポップアップ・レストランの絶妙なブランディングデザイン
イーストロンドンのショーディッチ(Shoreditch)は、1990年代から若いアーティストやクリエイターが住み出しました。現在では、ファッションや雑貨、インテリアに敏感な若者たちが集まる、トレンド発信地のひとつとなっています。
そのショーディッチに、オーナーシェフのAndrew Sutton氏が2019年にオープンした6ヶ月限定のポップアップレストランが「No Idea(ノー・アイデア)」です。デザートに着想を得た特別なメニューを提供するNo Ideaは、シェフがひとりで調理し、配膳して、料理の説明をします。
店名は、「何も知らなくても(have no idea)、何かパワフルなことをしていい」というスローガンに由来しています。
甘い食材とそれ以外の風味の取り合わせ
No Ideaは、空腹を満たすというよりも、ほかでは味わえないディナー体験を楽しむためのレストランです。選べるのは2種類のおまかせコースとそれに組み合わせる飲み物だけです。
コースのメニューには、チャレンジングな取り合わせが並びます。洋梨と栗のピューレ、グレープフルーツと味噌、人参とコーヒー豆といった具合です。ルバーブのコンポートとマスカルポーネの取り合わせには、梅干しがアクセントになっています。
コンセプトを反映するタイポグラフィ
このレストランの実験的なコンセプトを表現するために、Findlay氏はタイポグラフィに斜めのグリッドを採用しました。
店名のロゴタイプは、文字がほぼ40度で右上がりに並べられています。字間も1文字分ほどに広く、スペースを贅沢に使ったデザインです。
一方で、モダンスタイルのセリフ書体を使ったことで、先進性と繊細さが感じられます。NとD、OとEは、同じベースラインで揃えられています。自由でありながら整然としています。
同じように、メニューやビジネスカードも2つの異なるテイストの出会いの場となっています。レイアウトは、ロゴと同じく斜めのグリッドに沿った大胆なものです。しかし一方で、サンセリフ書体とセリフ書体によるタイポグラフィは、オーソドックスなエディトリアルを思わせます。
自由な精神は示しながらも、はしゃいだ感じや奇妙さは避けられています。この絶妙なバランスが、Findlay氏のビジュアル・アイデンティティです。それはまさにNo Ideaの料理のコンセプトと共鳴していると言えます。
design : Kelsen Findlay (United Kingdom)
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