ヘンリー・スタイナーの名前を知らなくても香港に足を踏み入れれば彼のデザインに囲まれることになります。銀行やホテルなどの企業ロゴから、屋外広告、雑誌やポスターのデザイン、免税店のシンボルマーク、そしてそこで支払いにつかう紙幣まであらゆるものにヘンリー・スタイナーのデザインが顔をのぞかせます。
ウィーンに生まれ、ニューヨークでグラフィックを学び、香港でデザイン会社を設立したスタイナーは「香港グラフィックデザインの父」と呼ばれています。
香港 – 異文化の出会いが放つ火花
中国大陸の端にありながら約150年間英国の統治下にあった香港は「東洋の真珠」と呼ばれる世界的な金融都市です。1997年に中華人民共和国に変換されたのちも「一国二制度」のもとで自由主義国家と同様の資本主義経済が認められてきました。中国の伝統と西洋の文化が出会う場所です。
ヘンリー・スタイナーは東洋のシンボルと西洋のデザインを独自のスタイルで組み合わせて香港のデザイン界を牽引してきました。スタイナーの活動範囲は極めて広範囲で、コーポレート・アイデンティティ、カタログ、パンフレット、建築グラフィック、書籍・雑誌デザイン、紙幣デザインを含みます。
異なる文化や伝統をブレンドしたり融合したり混ぜ合わせたりするのではなく、「類似したものを並べること」が必要だとスタイナーは言っています。それぞれの文化的要素を際立たせてコントラストをつけるのがスタイナーの手法です。異なる伝統に由来する視覚的要素が隣り合う時に放つ火花をスタイナーは求めてきました。
ポスターデザインを見る (via Pinterest)
2008年に香港で開催されたウィーンオペラ座舞踏会(ヴィーナー・オーパンバル)のポスターでは、広東オペラ(粤劇)の女優の顔を西洋人の女性の顔の上に乗せています。女性の顔はウィーン出身の画家グスタフ・クリムトの絵画の一部をモノクロに処理したものでした。それぞれの伝統を踏まえながら安易なミックスをしないという、スタイナーの考えがよくわかる作品です。
「デザインにはコントラストがなければいけません。色、期待、心理的緊張、大きさ、新旧などがコントラストとなりえます」(ヘンリー・スタイナー談)
ポスターデザインを見る (via Pinterest)
漢字とアルファベットとの組み合わせもスタイナーのタイポグラフィ面での特徴です。香港地下鉄(MTR)の1989年版アニュアルレポートの表紙は開業10周年を記念したデザインで、筆で描いた漢字の「十」をアルファベットの「en」と組み合わせて「ten」と読ませるものでした。
HSBCのロゴデザイン
Willy Barton / Shutterstock.com – HSBCホールディングスのロゴ(※2018年のリニューアル前のビジュアル)
香港上海銀行(HSBC)の香港本店ビルは独特の構造と外観を持つハイテク建築で香港のランドマークのひとつとなっています。そのビルの最上部にも掲げられているロゴマークはヘンリー・スタイナーが1983年にデザインしたものです。
香港上海銀行は1865年にスコットランド人トーマス・サザーランドが設立しました。スコットランド国旗は青地に白の斜め十字ですが、香港上海銀行の社旗のデザインはそれに基づいていました。四角形を対角線で分割してできた上下の三角形を赤、左右の三角形を白というものでした。スタイナーは長く使われてきたそのデザインをそのままに、赤い三角形を左右に追加することで、つながりと羅針盤の目盛りを思い起こさせる新しいロゴマークを作り出しました。
同銀行のロゴマークは2018年にリニューアルされましたが、シンボルマークはわずかに色が濃くなったものの、形を変えることなく「窓」という新しい意味を付与されて現在も使われています。
ヘンリー・スタイナーのグラフィックデザイン、ロゴ、ブランディング
香港の英字新聞『サウスチャイナ・モーニング・ポスト』(South China Morning Post)紙のインタビューに、グラフィックデザインは装飾でもなく、美学だけをあつかっているのでもないと答えています。
「(グラフィックデザインは)何よりもまずコミュニケーションと説得のための形態なのです」(ヘンリー・スタイナー談)
また、企業のアイデンティティと視覚的に整合性を持つ適切なロゴであれば役に立つし、ブランドに価値を添えることもできるとの考えを述べました。
「(ロゴは)誰もが敬意を表する旗のようなものです。しかし、ブランディングには限界があります。結局のところ、企業にはちゃんとしたプロダクトと十分な事業計画が必要です。もしそれが欠けているのであれば、そのことを補えるデザインなどというものは存在しません」(ヘンリー・スタイナー談)
香港紙幣のデザインを手がける
ロンドンを拠点とするスタンダードチャータード銀行は香港ドル紙幣を発行していますが、スタイナーは1979年から何種類かの紙幣デザインを手がけています。
各国・各地域の紙幣は偽造防止の意味も含めて人物の顔が描かれることが多いのですが、スタイナーはその代わりに神話上の動物を採用しました。
20香港ドル・50香港ドル・100香港ドル・500香港ドル・1000香港ドルにそれぞれ、魚に似た竜の子の螭吻(ちふん)、亀に似た竜の子の贔屓(ひき)、麒麟(きりん)、鳳凰(ほうおう)、五爪龍(ごづめりゅう)を描きました。紙幣のデザインは何度かリニューアルされています。動物の絵はオモテ面に印刷されており、2010年のリニューアルではウラ面の図柄が刷新されました。スタイナーは伝統的な事物と先端技術のイメージを組み合わせています。たとえば20ドル札では算盤(そろばん)の珠(たま)とバイナリコード、50ドル札は古い中国錠と最新式の格納庫、500ドル札では顔のツボを示した図と顔認証システムといった具合です。
香港の特殊な紙幣事情
日本円の紙幣を発行しているのは日本銀行だけです。しかし、香港では3つの商業銀行(市中銀行)が紙幣を発行しています。香港上海銀行、中国銀行、スタンダードチャータード銀行の紙幣はそれぞれデザインが異なっているのです。旅行で訪れたことのある人はご存知でしょうが、たとえばお釣りでもらった20香港ドル札が3枚とも全部デザインが違うということも珍しくありません。また紙幣のデザインは10年前後で変更されるので、現金で買い物をすると新旧さまざまな額面の異なる紙幣が手元に集まってきます。2018年末からは新紙幣が導入されています。新デザインではウラ面のデザインテーマは額面ごとに3行とも統一されました。
経歴
ヘンリー・スタイナーは1934年にオーストリアのウィーンに生まれました。比較的裕福な家庭でしたがナチスドイツによるオーストリア併合を受けて1939年に米国に亡命します。
10代でSF小説に熱中したスタイナーはニューヨーク市立大学ハンター校在学中は作家かイラストレーターになりたいと考えていました。同校卒業後にイェール大学へ進むとヨーゼフ・アルバース(Josef Albers)やポール・ランド(Paul Rand)のもとでグラフィックデザインを学び、修士号を取得。ニューヨークの広告代理店やデザインスタジオでの見習い期間を経たのち、フルブライト奨学金を得てフランスのソルボンヌ大学でも学びます。
ニューヨークに戻ると当時は珍しかったカラー印刷の『Asia Magazine』誌でデザインディレクターの職につきました。同誌の香港での発刊準備のために1961年に同地に移り現在にいたります。1964年に現在のSteiner & Co.の前身となるスタジオGraphic Communication Ltd.を設立しました。「グラフィックデザイン」という概念がまだ香港にもたらされていない時代でした。以来スタイナーは東洋と西洋の芸術と伝統を独自の視点で解釈しなおし、香港のデザイン界をリードし続けています。
ヘンリー・スタイナー(Henry Steiner)
1934年~
オーストリア
グラフィックデザイナー
【参考資料】
・Henry Steiner、Wikipedia(https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Steiner)
・Henry Steiner: the king of graphic design | South China Morning Post(https://www.scmp.com/magazines/post-magazine/article/1622030/one-man-brand)
・Henry Steiner. Cross-Cultural Design A Harmonious Encounter Between East And West(https://medium.com/progetto-grafico/henry-steiner-cross-cultural-design-a-・harmonious-encounter-between-east-and-west-aad6eebf1e7a)
・Henry Steiner: “A very ‘weanerisch’ Sensibility” – Austrian Posters (https://www.austrianposters.at/2013/11/04/henry-steiner-a-very-weanerisch-sensibility/)
・香港紙幣 – 维基百科,自由的百科全书(https://zh.wikipedia.org/wiki/香港紙幣)