オトル・アイヒャー(Otl Aicher)はドイツを代表するグラフィックデザイナーでタイポグラファーです。ウルム造形大学を共同で創設しバウハウスの理念を継承し発展させました。1972年のミュンヘンオリンピックでは、競技種目などのピクトグラムを含むアイデンティティのトータルデザインを指揮しました。
Otl Aicher by Wikipedia
現代のCIシステムによるブランディングやサインシステムの礎(いしずえ)を築いたオトル・アイヒャーは、ビジュアル・コミュニケーション・デザインの先駆者です。
ミュンヘンオリンピックのアイデンティティ・デザイン
オトル・アイヒャーは、1972年にドイツのミュンヘンで開催された夏季オリンピックのデザイナーチームを牽引しました。ドイツでは1936年にベルリンオリンピックが開催されましたが、それは第二次世界大戦前夜のナチス政権のもとにおいてでした。そのため、戦後の民主的で開かれた新生ドイツの姿を戦前とは全く違うかたちで世界中に示すことをアイヒャーは主眼に置きました。
オリンピックのビジュアル (via Pinterest)
アイヒャーの意図は、デザインガイドラインに示されたように、ミュンヘンオリンピックを「元気よく、明るく、ダイナミックで、政治色を排し、感傷には浸らず、イデオロギーもない、遊び心あふれるスポーツと文化のゲーム」として見せるというものでした。
デザインチームはアイヒャーをリーダーとし、ポスターやパンフレットからサインシステム、スタッフのユニフォーム、スタジアムのサインや座席の色まで、統一したコンセプト、フォーマット、グリッドに基づいて作り上げました。タイプフェイスにはUnivers(ユニバース)を採用し、また、ドイツアルプスの色などを反映したカラーパレットを設定して、オリンピックに関わるあらゆる要素を厳格にコントロールしました。
オリンピックのビジュアル (via Pinterest)
ミュンヘンオリンピックについてアイヒャーはこう言っています。
「厳密に設計された文法のように、このデザインシステムで自由に遊ぶことができます。これは球技やチェスに似ています。決まった要素と決められたルールによって自由に遊ぶことができるのですから」
ミュンヘンオリンピックのエムブレムとマスコットデザイン
ミュンヘンオリンピックのエンブレムデザイン (via Pinterest)
「光の冠(Strahlenkran)」と呼ばれるオリンピックのエンブレムは、中央から外側へ向かって螺旋状の動きを感じさせる幾何学的でモダンなデザインです。輝くミュンヘンとスポーツの喜びや躍動感を表しています。この先進的なシンボルマークは発表当初はあまり好意的に受け入れられなかったそうです。
マスコットのバルディー (via Pinterest)
また、オリンピックにマスコットを採用したのもアイヒャーが初めてでした。「バルディー(Waldi)」いう名前のダックスフントで、カラーパレットとグリッドで厳密に定義されていましたが、色使いなどにはある程度の自由が認められていました。
時代を超えて世界の基準となったピクトグラム
Drawn by Otl Aicher, on Display at the Olympic Ice Rink / Henning Schlottmann (CC BY 1.0)
オリンピックのピクトグラム (via Pinterest)
ミュンヘンオリンピックでのアイデンティティ・デザインの中で、オトル・アイヒャーの功績としてとりわけ広く認められているのがピクトグラムです。競技種目から施設までの直感的で明瞭なピクトグラムシステムを構築しました。これは高く評価され、それ以降のオリンピックのピクトグラムの基準となりました。ピクトグラムで使われた人間のシルエットから、アイヒャーは「幾何学人間の父(father of the geometric man)」と呼ばれたりもします。
言葉がなくても情報を伝えることができるピクトグラムの価値と有用性を世界に知らしめたのが1964年に開催された東京オリンピックであることはよく知られています。オリンピックデザインチームのリーダーを託されたアイヒャーは、東京オリンピックのデザインプロジェクトを率いた勝見勝(かつみまさる)の意見を聞きます。そして、東京オリンピックのピクトグラムをベースにしながら、さらに緻密なグリッドとカラーパレットを厳格に用いて、今日のピクトグラムの基準と言えるシステムに高めたのがオトル・アイヒャーなのです。
ルフトハンザドイツ航空のブランディング
・ルフトハンザ航空のロゴ / nmann77 – stock.adobe.com
アイヒャーは企業のブランディングにも大いに関心を持っていて、1960年代にはドイツのフラッグシップ、ルフトハンザのCI構築に携わりました。有名なロゴのツルのシンボルはルフトハンザの前身である航空会社DLRが1918年から使っていました。
ルフトハンザドイツ航空のブランディングデザイン (via Pinterest)
アイヒャーはウルム造形大学の学生とともに取り組んだアイデンティティデザインの中で特筆されるのは、当時の主な航空会社のCIではほとんど使われていなかったイエローを採用したことです。スピード・安全・新鮮さ・俊敏さ・活気・技術を表す色としてツルの背景に入れられたイエローはのちに「ルフトハンザ・イエロー」と呼ばれました。
ヘルベチカ・ボールドを採用したワードロゴと組み合わされたロゴは世界中で愛されましたが、ツルのロゴ誕生から100周年を記念して2018年に大幅なグラフィック・アイデンティティの見直しがおこなわれ、尾翼からイエローが取り去られてしまいました。ルフトハンザのアイデンティティとしてアプリやサインシステムなどには今でもルフトハンザ・イエローが重要な役割を果たしています。
ドアハンドルの老舗FSB社のロゴデザイン
FSB社の商品 (via Pinterest)
創立から135年以上の歴史を誇るドイツのFSBは、ドアや窓などのハンドルを中心とした家具金物の老舗メーカーです。バウハウスの理念に沿った機能美が同社製品の特徴です。そのロゴもオトル・アイヒャーは手がけました。
ロゴデザインを見る (via Pinterest)
ワードロゴの左側に置かれたシンボルマークは、哲学者ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインが妹の家を設計したときの「棒は使われたときだけレバーになる」という言葉にインスピレーションを得て作成されました。この上なくシンプルかつこれほど的確にハンドルの本質を表すことはできないでしょう。ワードロゴとのバランスや距離も非常に印象に残ります。
ロゴについて (via Pinterest)
FSBのコンサルティングをしていたアイヒャーは同社のために「良いグリップのための4つのポイント」も考案しています。親指を休める場所、人差し指用のくぼみ、手のひらの支え、握るのに十分な大きさ、これらがすぐれたハンドルに必要であるとするものでした。今でも同社の指針になっています。
ブルトハウプ社のロゴと「Rotis」フォントデザイン
ブルトハウプ社のロゴ (via Pinterest)
オトル・アイヒャーはキッチンシステムメーカー「ブルトハウプ(Bulthaup)」のコンサルティングを1980年代におこなっていました。現在の同社のワードロゴはアイヒャーが1988年に作成したフォント「Rotis」が使われています。Rotisはセリフ体とサンセリフ体、その中間のセミ・セリフ、セミ・サンという4つの書体で構成されたユニークなものでした。
オトル・アイヒャーの一貫した反ナチス姿勢
オトル・アイヒャーは1922年にドイツのウルム市に生まれました。1929年の世界恐慌のあと徐々に台頭してきたナチ党は1933年についに第1党となります。アイヒャーは一貫してナチスに反対で、ヒトラーユーゲントへの入団拒否を理由に逮捕されたり、ドイツ軍に徴兵後も脱出を試みたりしました。戦後に結婚した妻イングの兄と姉はナチスへの抵抗運動に参加したのを理由に処刑されてています。
そういったアイヒャーの体験を踏まえると、戦後の自由と民主主義の象徴だったミュンヘンオリンピックでのデザインに込められた思いに少し近づけるかもしれません。のちにアイヒャーは次のような言葉を残しています。
「信頼は言葉では得られず、視覚的な証明によってのみ得られる」
ウルム造形大学の設立
Hans G. Conrad / René Spitz (Rechteinhaber) CC BY-SA 3.0
1953年にマックス・ビル(Max Bill)と妻とアイヒャーはウルム造形大学(Hochschule für Gestaltung Ulm)を設立します。初代校長を務めたマックス・ビルはいくつもの顔を持つマルチ・クリエイターです。デザインと芸術の統合をうたったバウハウスの理念を引き継ぎ、理論と実践を繰り返しながら機能主義に基づく造形を発展させました。
オトル・アイヒャーを含め、ウルム造形大学の人材は企業のブランディングやプロダクトデザインに積極的にかかわりました。製品の機能美で知られるブラウン社(Braun)のディーター・ラムス (Dieter Rams)もアイヒャーたちのサポートを受けていました。
オトル・アイヒャー(Otl Aicher)
1922年~1991年
ドイツ
グラフィックデザイナー、タイポグラファー
【参考資料】
・Otl Aicher、Wikipedia(https://en.wikipedia.org/wiki/Otl_Aicher)
・Otl Aicher、History of Graphic Design(http://www.historygraphicdesign.com/the-age-of-information/the-international-typographic-style/172-otl-aicher)
・otl aicher pictograms(https://www.piktogramm.de/en/#)
・Quick Design History: Otl Aicher #ThrowbackThursday、Shillington Design Blog(https://www.shillingtoneducation.com/blog/otl-aicher-tbt/)
・Pictograms Olympic Games 1972 Munich(http://www.olympic-museum.de/pictograms/olympic-games-pictograms-1972.php)
・The Design Manual of Munich ’72 – The Joyful Games by Niggli Verlag, Braun Publishing AG ― Kickstarter(https://www.kickstarter.com/projects/niggliverlag/the-design-manual-of-munich-72-the-joyful-games)
・FSB – About us(https://www.fsb.de/en/company/about-us/)
・A5/05: Lufthansa+Graphic Design by A5 Graphic Design History、issuu(https://issuu.com/a5design/docs/a5_05_leseprobe)
・オトル・アイヒャーによるミュンヘン・オリンピックの 「Design Manual of Munich ’72」復刻版が登場、Webマガジン「AXIS」(https://www.axismag.jp/posts/2019/05/127816.html)
・根拠のあいまいなもう一つの伝説:Rotis について : デザインの現場 小林章の「タイプディレクターの眼」(https://blog.excite.co.jp/t-director/22132286/)