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印象操作

今の空気感に、言いようのない息苦しさを感じることがあります。

インターネット上の議論は「相手をいかに論理的に納得させるか」という、ある種の知的格闘技のような側面を持っていました。言葉を尽くし証拠を並べ、互いの妥協点を探る。それがたとえ厳しめの言い合いであっても、根底には「対話によって何かが変わるかもしれない」という微かな希望があったように思います。

しかし、最近の光景は随分と様相が異なります。議論をして相手を説得しようとするプロセスは省略され、最初から「この人物はいかに有害であるか」というレッテルを貼り、社会的な居場所を奪おうとする動きが目立ちます。

なぜ、僕たちは対話を諦めて誰かを追い出すことに、これほどまでのエネルギーを割くようになってしまったのでしょうか。その背景には、積み重なった疲弊と、ある種の「処世術」としての諦めが隠れている気がしてなりません。

 

対話という選択肢が消えていく理由

誰かと意見が対立したとき、まず言葉を交わそうとする。これはかなりコストの高い行為です。相手がこちらの言葉をどう受け取るか、どのような背景を持っているか、どこまで共通言語があるか…等を探りながら進める作業はエネルギーを消耗します。

特に、どれだけ誠実に言葉を尽くしても全く話が通じない相手や、こちらの善意を逆手に取って攻撃してくる相手に遭遇したとき、僕たちは深い無力感を味わいます。「何を言っても無駄だ」という経験が一度や二度ならまだしも、何度も繰り返されるうちに、脳は学習してしまいます。

「対話は時間と労力を浪費するだけで、何も生み出さない」

そう結論付けてしまうのは、自分を守るための防衛本能に近いのかもしれません。その結果、次に新しい議題、あるいは新しい誰かと出会ったとき、僕たちの選択肢から「対話」というカードが最初から抜けて落ちてしまっている。

過去の経験から得た教訓は自分を守る盾にはなりますが、同時に新しい世界との接点を断つ壁にもなります。相手が誰であれ、新しいトピックであれば、本来は再びフラットな状態からスタートすべきです。しかし、心に刻まれた「対話の敗北」の記憶が、僕たちの歩みを止めてしまいます。

 

議論の目的が「理解」から「印象操作」へ

印象操作

対話が選択肢から消えた後に残るのは、相手を「排除」するという目的です。

論理的に相手の誤りを指摘し、納得してもらう必要はありません。むしろ、周囲に対して「この相手はまともな対話が通じない、危険な存在である」というイメージを植え付ける方が、目的を達成するには効率的です。

情報の正誤を精査することよりも相手のネガティブな印象を作り出し、世間の「空気」を味方につけて追い出してもらう。この手法は、一度成功体験を得てしまうと、かなり効果的な手段に見えてしまうかもしれません。対話という泥臭い作業をせずとも、イメージ戦略だけで相手を無効化できるからです。

しかし、このやり方は劇薬です。正誤を問わず、ただ「イメージが悪い」という理由で誰かを排除する論理が蔓延すれば、それはいつか自分自身にも向けられる刃になります。そこには真実も誠実さもなく、ただ声の大きい側や、イメージ操作に長けた側が勝つだけの空虚な世界が広がっています。

正義感に擬態する「エンターテインメント」

問題が個人の手を離れ、集団の関心事へと膨れ上がるとき、事態はさらに歪な形へと変貌します。

当初は特定の誰かに対する「苛立ち」や「諦め」から始まったはずの排除の動きが、いつの間にか「エンターテインメント」としての性質を帯び始めるのです。

「悪い奴を叩いて、社会から追い出す」

この物語は、参加する人々に安易な正義感と一体感を与えます。「正義の味方」として振る舞う快感があり、日々のストレスを解消する格好の遊び場となります。中には、騒動の本質や事の是非には興味がなく、ただ「燃え上がる火を眺めること」や「石を投げる祭りに参加すること」を目的に集まってくる人々もいます。

こうなると、もはや当事者間の対話などは入り込む余地がありません。観客たちは、退屈な「淡々とした事実確認」よりも、刺激的な「悪役の転落」を望んでいるからです。正義という大義名分を掲げながら、その実、行われているのは集団による娯楽としての排斥である。この残酷な構図が、今の至る所で見受けられるように思います。

 

「淡々と話す」という唯一の抵抗

タイピング

では、僕たちはこの濁流の中で、どのように振る舞うべきでしょうか。

感情的に反論すれば、その「怒り」さえもエンタメの素材として消費されます。悲しみを露呈すれば、それもまた「弱み」として利用されるかもしれません。

僕が考える一つの答えは、徹底して「淡々と対話する」姿勢を貫くことです。

周囲から見れば、それは極めて退屈で、エンタメ性の欠片もない情報のやり取りに見えるでしょう。しかし、その「つまらなさ」こそが重要です。過剰な感情を排除し、事実に基づいた対話を継続することは、熱狂を求めて集まってきた人々に対する最大の防御になります。

「あいつを叩いても、面白い反応が返ってこない」 「ただ理詰めで話が進むだけで、祭りになりそうにない」

そう思わせることができれば、エンタメとして消費しようとする層は自然と離れていきます。後に残るのは、本来向き合うべき議題と、当事者同士の対話だけです。

もちろん、これは口で言うほど簡単なことではありません。目の前で自分のネガティブなイメージが捏造され、世間から追い出されそうになっているときに、冷静さを保つのは至難の業です。それでも、僕たちが「対話という人間的な営み」を諦めないためには、感情の波に飲み込まれないための強さが必要です。

過去の経験に、未来を奪われないために

僕たちは、これまでの人生で多くの「対話の失敗」を経験してきました。傷つき、疲れ果て、もう二度と誰とも分かり合えないのではないかと絶望した日もあるかもしれません。

それでも、僕は忘れないでいたいのです。

目の前にいる「新しい誰か」は、僕を傷つけた「過去の誰か」ではありません。今起きている「新しい議題」は、かつて僕を絶望させた「あの出来事」ではありません。

過去のデータに基づいた予測は、確かに効率的な生存戦略です。しかし、その予測に頼りすぎるあまり、最初から対話の窓口を閉ざしてしまうのは、未来に対する不誠実ではないかと思うのです。

毎回、オープンな姿勢で議論の場に立つ。相手が誰であれ、まずは言葉が通じることを信じて一歩を踏み出す。

また同じように裏切られ、疲弊するだけかもしれません。しかし、誰かをイメージで塗り潰し、社会から排除することで得られる平穏よりも、対話を試みた末の「不器用な衝突」の方がはるかに価値があると思っています

「イメージ」や「感情」で人を裁こうとしても、「言葉」と「論理」を捨てずにいたい。淡々と、それでいて誠実に、一対一の人間として向き合い続けること。その積み重ねの先にしか、僕が本当に住みたい世界はないのだと感じています。

 

X上の信条や主義の対立、「理論的に納得・理解してもらおう」という感じから、徐々に「ネガティブイメージ(正誤も精査しない)を作り出して、世間に追い出してもらおう」に変化していくのは何故なのか。

X (Twitter) – May 4, 2024

この記事は過去の自分のX(Twitter)のポストを元に、編集しています。

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トミナガハルキ

グラフィックデザイナー/AMIX 代表。独学でデザインを学び、パッケージメーカー→美容系ベンチャー→家庭用品メーカーでのデザイン・広報運営を経て独立。現在は小さな事務所を拠点にASOBOAD等のサービスを運営し、ロゴ・パッケージ・広告物を中心に制作しています。著書『#ズボラPhotoshop 知識いらずの絶品3分デザイン』は各カテゴリでベストセラーを獲得。2020年Adobe Creative Residency選出。ブログでは、10年以上の実務から学んだことや働き方のヒントを等身大の視点で発信しています。