
生き残った人だけが見えている
「あの人は寝る間も惜しんで働いて成功した」「若いうちは体力で乗り切るべき」。こういった話はビジネスの世界でよく耳にします。猛烈に働いて結果を出している人は目立ちますし、その姿に刺激を受ける気持ちもわかります。
でも僕たちが目にしているのは「生き残った人」だけです。
無理を重ねた結果体を壊してリタイアした人、精神的に限界を迎えて表舞台から消えた人。そうした人たちは可視化されません。成功した人のエピソードだけが語り継がれ、途中で脱落した人の話は誰にも届かない。結果的に「無理してでも働けた人=優秀な人」という図式ができあがります。
でもそれは「たまたま耐えられた人」が目に見える場所に残っているだけの話で、働き方の正解を示しているわけではありません。
「実力」の括りが広すぎる
無理をして働ける体力や精神力を「実力」と呼ぶ風潮があります。たしかにそれもひとつの能力ではあるでしょう。でもそれを「実力」という大きな括りでまとめてしまうと話がずれていきます。
あるプロジェクトで徹夜続きの末に成果を出した人がいたとします。その成果は評価されるべきです。でも「徹夜できたこと」と「質の高いアウトプットを出せること」は本来別の話です。たまたま体力があったから倒れずに済んだだけかもしれない。
体力や根性で乗り切った経験を「自分の実力」だと認識してしまうと、それが自分のスタンダードになります。次も同じやり方で乗り切ろうとする。うまくいけば成功体験が強化され、さらに無理を重ねるようになる。でも人間の体も心も消耗品です。いつか必ず限界が来ます。
短距離の全力疾走まで否定したいわけではない

ここまで読むと「頑張ること自体を否定しているのか」と思われるかもしれません。まったくそんなことはありません。
チャンスはいつ来るかわからないし、来たときに全力で掴みにいかなければ逃げていきます。大事な案件の前に集中して追い込む。ここぞという場面で普段以上の力を出す。そういう瞬間的なタフネスさは間違いなく大事です。むしろ、それができるかどうかで結果が大きく変わる場面は確実にあります。
問題はその「短距離の全力疾走」を日常のペースだと勘違いすることです。
100メートルを全力で走れることと42キロを走り切れることはまったく別の話です。短距離の瞬発力を自分の巡航速度だと思い込んでしまうとペース配分を誤ります。序盤で飛ばしすぎて途中で潰れる。仕事でも同じことが起きます。
ここぞという場面で全力を出すのは戦略です。日常的に無理を続けるのはただの消耗です。この二つは似ているようで全然違います。
「倒れない設計」は自分でやるしかない
会社員であれば周囲が異変に気づいてくれたり、制度として休職の選択肢があったりします。でもフリーランスや自分でビジネスをやっている人にはそうした仕組みがほとんどありません。自分が倒れたら仕事が止まる。代わりはいない。
だからこそ「倒れないように走る」ことの重要性が増します。
フリーランスの最初の数年間はどうしても無理をしがちです。実績を作りたい、信頼を積み上げたい、断ったら次がないかもしれない。追い込まれる局面は誰にでもあります。その時期を乗り越えた人が「最初は歯を食いしばるしかない」と語る。聞いた側は「やっぱりそうか」と受け取る。
でもその陰には同じように歯を食いしばって続けられなくなった人がいるはずです。語られるのはいつも生き残った側の話だけです。
全力を出す場所を選ぶ

長く続けている人を見ていると「常に全力」というよりは「力の入れどころを知っている」という印象を受けます。
普段は自分のペースを守って余力を残しておく。そしてここだという場面が来たら一気にギアを上げる。この切り替えが上手い人が結局いちばん長く走れているように見えます。
全力で走れることは素晴らしい。でもそれは「いつでも全力で走るべきだ」という話とは違います。全力を出すタイミングを見極められること。それ以外の時間は温存できること。長い目で見たとき本当に差がつくのはこの使い分けのほうだと思います。
常に全力を求める空気に飲まれて走り続けるより、自分のペースで淡々と走りながらここぞで加速する。そっちのほうがたぶん遠くまで行けます。
無理をしてでも働く人が仕事できる論って、結果的に生き残った人が出世して可視化されているだけで、亡くなった人や病気でリタイアした人は可視化されないですからね。(ただ、本当にここぞ!というポイントは外さないとか、そういう瞬間的なタフネスさは大事だと思う)
X (Twitter) – May 17, 2024



