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やたらに師匠と呼ばない、やたらと師匠にならない。
「みだりに人の師となるべからず。みだりに人を師とすべからず。」という言葉が、なぜか頭の片隅に引っかかったままです。たくさんの情報が得られるこの時代だからこそ、あえて気をつけたいと思わせるものがあるのでしょう。誰かの言葉を手本にしたり、逆に自分が教える立場になったり…こうした機会が増えれば増えるほど、「師匠」と呼ぶこと、呼ばれることの意味をいま一度振り返りたくなります。
「師匠」ってそんなに軽い呼び方だっただろうか
学生の頃は、実際に教えを受けている相手を自然に「先生」「先輩」と呼んでいました。「師匠」と言うと、一段と格の高い響きがあるというか、漫才の世界や伝統芸能のように、長年の修行を積んだ人にだけ許される肩書きだと思っていました。それが今ではSNSや動画サイトでちょっとしたノウハウを教えてくれた人に対しても、「○○師匠!」「神!」という軽いノリでリプライが飛んでいくのをよく見かけます。
人に弟子入りするのも、師匠を自称するのも、決して悪いことではないはずです。むしろ自分の立ち位置をわかりやすく表すために、そういう言葉を使うのは便利です。ただ、言葉に込められた重みがあまりにも軽々しく扱われていないかな、と少し気になります。何もかも受け売りで学ぶだけになってしまったり、逆に「俺に任せろ」と大げさに構えてしまったりするのは、ちょっとした落とし穴かもしれません。
知識やノウハウは玉石混交
インターネット上には、デザインからプログラミング、ビジネススキル、そして自己啓発まで、あらゆる分野の情報があふれています。僕も日々、仕事の合間に新しいツールの使い方や海外のデザイン動向などをチェックしては「なるほど、こういうやり方があるのか」と学んでいます。ただ、そうして得た知識のうち、本当に役に立つのはごく一部という印象です。
誰かが「これが絶対に正解!」と胸を張って発信している情報でも、違う角度から見ればまったく別の見方があるものです。そこを一人の発信者だけに頼ってしまうと、その人の言葉がすべてのような気になってしまう。ある種の「師匠崇拝」が起きるのも、この流れがきっかけになりやすいのではないでしょうか。
「師匠になる」ことの怖さ
一方で、自分自身が「教える側」に立つときにも、同じような緊張感があります。とくに仕事である程度の成果を出したり、経験を積んだりすると、周囲から自然と質問や相談を受ける場面が増えます。僕も「やり方を教えてほしい」と頼まれることがあります。
このとき、自分があまりにも大きな顔をして「師匠」っぽく振る舞うのは気が引けます。自分が正しいと思って話していることが、本当に相手にとってベストなアドバイスかどうかはわからないからです。誰しも生まれ育った環境や才能、タイミングが違うので、「僕には合ったけど、あなたには合わないかも」と思うことがよくあります。
それに、「師匠」として持ち上げられてしまうと、ある種の義務感や責任感が生まれて、身動きがとりにくくなることもあります。本来ならフランクに「これはうまくいかなかった」「ここは難しかったから諦めた」と言えるところも、「師匠なんだから言い訳はできない」と自分で自分を縛りかねません。
ほどよい距離感で学んでいく
では、まったく師匠を持たずに独学で進めばいいのかというと、それも違うと思います。人を見て学ぶことができるのは、人間の素晴らしさの一つです。自分の目標とする人や、心から尊敬できる先輩、あるいは新鮮な刺激を与えてくれる憧れの存在を見つけることは、成長においてとても有意義です。
ただ、その相手に対して「師匠です!」と宣言せずとも、学ぶ方法はいくらでもあります。その人の仕事ぶりを観察したり、作品を参考にしたり、考え方をインタビュー記事で知ったり…距離感は人それぞれですし、一方的なリスペクトでもいいじゃないかと思います。大事なのは、自分に合わない部分を無理に真似しないことと、その人が示してくれた道だけがすべてだと思い込まないことです。
自分らしくあろうとする覚悟
「みだりに人の師となるべからず。みだりに人を師とすべからず。」という言葉は、裏を返せば「自分自身をきちんと持っていなければいけない」という戒めにも思えます。誰かを師匠とあがめてしまうと、いつの間にか自分の意見や感覚を後回しにしてしまったり、相手からの評価に振り回されたりするからです。
また、逆に人の師となる立場を簡単に引き受けるのも同じくらい危険だと思います。弟子や後進を導くことが、自分の生き方の軸を見失うきっかけになるかもしれません。「師匠だからこう振る舞わなければいけない」と思い込むあまり、挑戦や変化から遠ざかってしまう可能性もあるでしょう。
僕たちが本当に欲しいのは「自分らしく成長し続けるためのヒント」ではないでしょうか。そのヒントを与えてくれる先人たちはたくさんいますし、同時に僕たちも誰かの学びのきっかけになることがあります。でも、それが大げさに「師匠」と「弟子」の関係にならなくてもいいんじゃないか。お互いがそれぞれの道を歩みつつ、刺激やアイデアを交換し合うくらいの距離感が、ちょうど心地いいような気がします。
終わりに – 自分の道を見失わないために
師匠と弟子という関係そのものを否定しているわけではありません。伝統芸能の世界やスポーツなど、実際に師弟関係が必要な場面もたくさんあります。ただ、現代はあらゆる情報が手元で手に入り、学びたいと思えば誰とでも繋がれる時代です。だからこそ、あまりに軽いノリで「師匠!」「弟子です!」と言い合うことが、かえって自分の感覚を鈍らせてしまう危険もあるのではないでしょうか。
自分の歩む道を見失わないためには、どんな学び方をしているか、どんな気持ちで人に教えているかを、こまめに振り返ることが大切だと思います。もしもあなたが「最近、誰かをやたらと師匠と仰いでいたかも」と感じたなら、一度、その人と自分との関係を見直してみてもいいのかもしれません。そして、もし誰かに「師匠」と呼ばれて少し居心地の悪さを覚えたなら、その呼び方に甘んじる前に「本当に自分ができることは何だろう?」と考えてみるのも一つの手です。
どちらにしても、「みだりに人の師となるべからず。みだりに人を師とすべからず。」という言葉は、僕たちが情報や人間関係に振り回されず、自分らしくあり続けるためのヒントを与えてくれているように思います。誰かの力を借りるときも、誰かを助けるときも、自分はどんな姿勢で臨みたいのか…その答えを見つけるために、ちょっと立ち止まって考えてみる価値があると思います。
”みだりに人の師となるべからず。 みだりに人を師とすべからず。” という言葉、沢山の情報に触れられる時代だからこそ考えさせられます。
X (Twitter) – Oct 11, 2020