
もし僕がいま、フリーランスではなくどこかの組織に属する会社員として、40歳という年齢を迎えていたら。そう考えると、背中に冷たいものが走るような感覚を覚える時があります。
組織が嫌いだとか、会社員という働き方を否定したいわけではありません。単純に、僕という人間が持つ性質や能力のバランスが、今の日本の企業文化の中で健やかに生き延びるには、あまりにも「不向き」だと気づいてしまったからです。
アラフォーという入り口に立ち、少しだけ自分の輪郭がはっきり見えてきた今だからこそ「もしも」の世界で僕が直面したであろう景色を言葉にしておこうと思います。
無駄に空気を読みすぎることで削られる精神
組織で働く以上、避けて通れないのが人間関係の機微です。僕は他人が嫌いなわけではありません。むしろ、相手が何を考えているのか、今の発言が場にどう影響したのかを、過剰なまでに察知してしまう傾向があります。
「社内政治」と呼ばれるような、誰が誰と繋がりどの方向に風が吹いているのかを探り合う状況。そこに身を置くだけで、僕の精神的なエネルギーは急速に枯渇していきます。会議室に漂う沈黙の意味や、上司の何気ない溜息の理由を深読みし、勝手に疲れ果ててしまうのです。
さらに言えば、多くの人が潤滑油として活用している「雑談」も僕にとってはかなり難易度の高いタスクです。何を話せばいいのか、今のタイミングでこの話題は適切か。そんなことを考えているうちに、会話の輪から一歩引いた場所に立ち尽くしてしまいます。
会社という場所では、こうした「非言語的なコミュニケーション」や「立ち回りの巧さ」が、実務能力と同じくらい…時にはそれ以上に評価を左右します。40歳という、組織の中核を担う年代でこの能力が欠如していることは致命的な弱点になったに違いありません。
スペシャリストになれない自分への諦念

次に、仕事のスキルという面から考えてみます。僕は幸いなことに、デザインやWeb・広告の運用、文章を書くことなど、いくつかの技術を身につけてきました。ですが、そのどれか一つを取って「業界で指折りのスペシャリストだ」と胸を張れるかと言われれば、答えは完全に否です。
世の中には一つの道を狂気的なまでに突き詰め、圧倒的な成果を出す本物の天才たちがいます。彼らはその一芸があるだけで、たとえコミュニケーションが多少不器用であっても組織の中で確固たる居場所を築けます。周囲も「あの人は職人だから」と特別視してくれるでしょう。
僕はそこまで突き抜けることができませんでした。器用にある程度のレベルまでは到達できるけれど、その先にある、孤独なまでの深淵には手が届かない。そんな「中途半端な技術者」は組織の中では意外と使い道が難しいものです。
何でもこなせる便利屋として重宝されるかもしれませんが、代わりが効かない存在にはなりにくい。特に年齢を重ねれば重ねるほど、組織は「何かの専門家」であることを強く求めてきます。尖った武器を持たないまま、ただ年次だけを重ねていく自分を想像すると、強い焦燥感に駆られます。
チームマネジメントという名の高い壁

40代の会社員に最も強く求められる役割が後輩の育成やチームのマネジメントです。僕にとって、これが最大の難関であったことは間違いありません。
自分一人で試行錯誤し、形にしていく作業は大好きです。けれど、自分の感覚を言葉にして他人に伝え、モチベーションを管理し、組織全体の数字に責任を持つ。そんなリーダーシップを求められたとき、僕はきっと、自分の無力さに打ちひしがれていたはずです。
「自分がやった方が早い」という誘惑に勝てず、かといって部下を厳しく指導することもできず、板挟みになって悩み抜く姿が容易に想像できます。他人の感情に敏感すぎるがゆえに、相手に嫌われることを恐れ、適切なフィードバックすら送れなくなっていたかもしれません。
突き抜けたスペシャリストでもなく、かといってマネジメントの才能があるわけでもない。そんな「扱いに困る中堅社員」が、今の僕の年齢における、もう一つの姿だったのです。
鈍感になれないことの不幸と過剰な客観視
もし僕が自分のこうした特性に気づかないほど鈍感であれば、まだ救いがあったのかもしれません。「周りが悪い」「自分は正当に評価されていない」と他人のせいにしていれば、精神的な平穏は保てたでしょう。
ただ僕は、それを察せないほど鈍感ではありませんでした。自分の対人能力の低さも、スキルの限界も、上司が自分をどう扱えばいいか苦慮している空気も、すべて手に取るように分かってしまいます。
「自分は今、この組織の中で重荷になっているのではないか」「期待されている役割を果たせていないのではないか」
そんな自己嫌白に陥りながら電車に揺られる日々。それは僕にとって、ハードワークよりも過酷で耐え難い苦痛だったに違いありません。自分の無能さを正確に把握できていることは、時に、無能であることそのものよりも残酷です。
「もしも」の裏側にある今

こうして最悪のシナリオを書き連ねてみると、改めて、いま僕が立っている場所の有り難みが身に染みます。
フリーランスという生き方は決して楽な道ではありません。すべては自己責任であり、常に不安定さと隣り合わせです。けれど、少なくとも「自分に不向きな役割」を無理やり演じる必要はありません。
社内政治にエネルギーを割く代わりに、目の前のクライアントや自分の制作物と真摯に向き合うことができます。雑談に悩む代わりに、文字を通して自分の考えをじっくりと伝えることができます。
突き抜けたスペシャリストではないという事実も、個人で活動する上では「多角的な視点」という強みに変わります。デザインもできるし、Webの構造も理解できるし、文章も書ける。その掛け合わせによって、組織の中では埋もれてしまったはずの僕の能力が、誰かの役に立つ形として結晶化していきます。
ビバ!適材適所
僕たちは、ともすれば「どこでも通用する人間」にならなければいけないと考えがちです。コミュニケーション能力を磨き、専門性を高め、リーダーシップを身につける。確かに素晴らしい目標ですが、すべての人がその型にハマれるわけではありません。
僕のように、組織というシステムの中では摩擦係数が高くなりすぎてしまう人間もいます。それは個人の欠陥ではなく、単なる「相性」の問題だと思うようにしています。
40歳を目前にした今、僕が学ぶべきだったのは「自分を矯正する方法」ではなく「自分を活かせる環境の選び方」でした。もし会社員として苦しんでいた過去の自分に声をかけられるなら、きっとこう伝えます。
「君が苦しいのは、君がダメだからじゃない。ただ、立っている場所が少しだけ違っているだけだ」
自分の小さな根城を築く
組織の中では「扱いに困る存在」だったかもしれない僕の特性は、今では僕を支える大切なツールになっています。空気を読みすぎる繊細さは、クライアントの細かな要望を察する力になりました。突き抜けられなかった技術たちは、複眼的な提案や技術を生む土壌になりました。
もちろん、これからも体力的な衰えを感じたり、時代の変化に取り残されそうになったりすることもあるはずです。それでも自分の性質を否定しながら生きる苦しさに比べれば、それらはすべて乗り越えられる範囲の悩みだと思えます。
これからも、僕という人間が僕のままでいられる場所を、丁寧に耕し続けていこうと思います。それが、さっき妄想したパラレルワールドを回避した僕にできる、精一杯の誠実さだと思うからです。
僕は会社員でアラフォーになっていたら結構苦しかったのではなかろうかと思っています。対人コミュニケーション能力は低いし、突き抜けたスペシャリストでもないし、上は扱いに困るだろう。そしてそれを察せないほど僕も鈍感ではない。”もしも”の世界だから分からないけれど。
X (Twitter) – Jul 22, 2024



