
朝、パソコンを開いて最初にやるのは、溜まったメールやチャットの返信です。
最近はAIが返信の候補をいくつか提示してくれるので、それをクリックするだけで一通の返信が終わることもあります。失礼のない、丁寧で、過不足のない文章。それはとても便利ですし、僕も日常的に助けられている気がします。
でも、そうやって整えられた言葉ばかりを眺めていると、たまにふと、画面の向こう側にいるはずの相手の顔がぼんやりと霞んでしまうような、不思議な感覚に陥ることがあります。
そんなある日のことでした。
仕事でやり取りをしている方から、少し急ぎのチャットが届きました。そこには、明らかな変換ミスや、その人独特のちょっとした口癖が混じった文章が並んでいたんです。
「例の件ですが、朝イチで確認しますね!!!!」
そこには、相手が今まさに急いでキーボードを叩いている温度感のようなものが漂っていました。AIが書く「お世話になっております。件案につきましては、明朝確認させていただきます」という完璧な一文よりも、その崩れた文章のほうが、僕にはずっと温かく、信頼できるものに感じられたんですよね。
誤字があるからいい!…というわけでは決してないはずです。ただ、その間違いや癖の中に、その人の呼吸や、その時の心の揺れが透けて見える。そんな気がしてしまいました。
効率を追い求めて、誰もが「正解」のような言葉を投げ合えるようになったからこそ、そこからこぼれ落ちてしまう「その人らしさ」に、僕は妙にドキドキしたり、安心したりしているのかもしれません。
効率化のあとの「あと一歩」
僕自身の仕事でも、文章を書く機会はたくさんあります。ブログを書くときもそうですし、クライアントにデザインの意図を説明するときもそうです。
もちろん、AIに下書きをお願いすることもあります。一瞬で構成を考えてくれて、論理的な文章を組み上げてくれるそのスピードには、いつも驚かされます。でも、AIが出してくれた「それっぽい」文章をそのまま表に出すことは、僕にはどうしてもできません。
結局、最後は自分の手を動かして、一文字ずつ直していくことになるんですよね。
「この表現は、僕の口から出る言葉としては少し硬すぎるな」
「ここはあえて、少し言葉を濁したほうが伝わる気がする」
そんなふうに、ニュアンスの微調整を繰り返していると、AIを使って効率化したはずの時間は、あっという間に過ぎていきます。効率を求めてツールを使っているはずなのに、最後には一番効率の悪い「自分の感覚」に頼ってしまう。
でも、この「効率の悪い時間」こそが、実は最も手放したくない部分なんじゃないかと思っています。
デザインの仕事でも同じようなことがあります。完璧なグリッドに沿って要素を配置し、数学的に正しい比率でロゴを作っても、なぜか「冷たい」と感じてしまうことがあります。
そんなとき、あえてほんの少しだけ重心をずらしたり、線の太さを手作業で微調整したりすると、急にそのデザインが呼吸を始めるような瞬間があります。
効率化によって浮いた時間は、サボるための時間ではなく、その「あと一歩」の人間味を注ぎ込むために用意されている。最近はそんなふうに考えるようになりました。
手書きのメモが持つ引力

ある時デスクの引き出しを整理していたら、数年前に知人から借りた本に挟まっていた付箋が出てきました。
丁寧にペンを握り、紙にインクを乗せる。そこには確実に「手間」がかかっています。何気ないものでしたが、ちょっとした手間を惜しまずに自分に届けてくれたという事実が、今となっては言葉以上の意味を持って迫ってくる気がします。
今の世の中、情報を伝えるだけなら一瞬です。でも、その情報に「心」を乗せようとすると、どうしても手間暇が必要になります。
手書きのメモや、あえて推敲されていない生っぽい言葉。それらは、効率化というフィルターを通り抜けられなかった、純度の高いコミュニケーションの形なのかもしれません。
ラグジュアリーとしての手間暇
以前は、「効率的であること」が何よりの価値だと思っていました。いかに短時間で、いかに多くの成果を出すか。それがプロとしての正解だと信じていた部分もあります。
でも、あらゆるものが自動化され、最適化されていく中で、その価値観が少しずつ変わってきているように感じています。
誰でも簡単に「完璧なもの」を手に入れられるようになったからこそ、あえて時間をかけ、手間を惜しまず、非効率なプロセスを楽しむこと。それが、今の時代の最高のラグジュアリーになりつつあるのかもしれません。
例えば、ボタン一つで美味しいコーヒーが飲める時代に、あえて豆を挽き、お湯の温度を測りながらゆっくりとドリップする。その時間は効率の面から見れば無駄かもしれませんが、精神的な豊かさという点では代えがたいものです。
仕事においても、同じことが言える気がします。
AIに任せれば数秒で終わる作業を、あえて自分の感性を通して時間をかけてこねくり回す。そこから生まれる「歪み」や「癖」こそが、受け取る人の心を動かすフックになる。
僕はデザイナーという仕事をしていますが、結局のところ僕たちが作っているのは「機能」だけではなく、その先にある「体験」や「感情」なんだと思っています。
だとすれば、作り手である僕自身が手間暇というコストを支払うことを惜しんでいては、誰かの心を揺さぶることなんてできないのかもしれません。
帰り道の風景
今日もまた、たくさんの「完璧な言葉」が僕の周りを通り過ぎていきました。
スマートな返信、整った広告コピー、論理的なニュース記事。それらはとても快適で、ノイズがなくて、少しだけ寂しいものです。
そんな中で、不意に届く「生っぽい」言葉たち。
ちょっとした言い間違いや、感情が先走った文章。
そういったものに触れるたび、僕は自分が人間であることを思い出させてもらえる気がします。効率化の果てにあるのは、かつて僕たちが捨て去ろうとした、あの非効率で人間臭い世界への回帰なのかもしれません。
便利になればなるほど、僕たちは不便なものの中に宿る温かさを欲するようになるのかもしれない。デスクの隅に置かれた、自分でも読み返せないような汚い字のメモを眺めながら、そんなことを考えていました。
メールもチャットもAIがそれっぽい文章を書いてくれるようになったからこそ、たまに手書きのメモや、あえて推敲されていない生っぽい言葉を受け取ると、妙にドキッとするようになりました。効率化の果てにあるのは、非効率な人間臭さへの回帰。「手間暇」が最高のラグジュアリーになる未来はもう来ているのかもしれません。
X (Twitter) – Dec 27, 2025



