書体ギル・サンズは「イギリスのヘルベチカ(Helvetica of England)」と言われることもあります。英国を代表する彫刻家で書体デザイナーのエリック・ギル(Eric Gill)が生み出しました。サンセリフ体のなかでもヒューマニスト・サンセリフに分類されています。
1928年に金属活字としてモノタイプ社からリリースされました。翌年にはロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道(LNER)の公式書体に採用されるなど、またたく間にさまざまな分野で活用されるようになります。とくに第二次世界大戦後は、印刷物から看板、広告、ロゴまであらゆる媒体で使われ、英国を象徴する書体となりました。
古くさく感じるから、という理由で避けられた時期もありましたが、金属活字から写真植字へ、そしてデジタルフォント化という変革期には復刻版が作られました。現在でも、英国内外を問わず人気書体のひとつとなっています。
ギル・サンズ(Gill Sans)を使ったロゴデザインの例
英国で生まれたギル・サンズですが、あたたかみと読みやすさを兼ね備えた文字の美しさに国境はありません。ギル・サンズで組まれたロゴタイプの例を紹介します。
BBC – 英国放送協会のロゴ(英国)
・BBCのロゴ – William – stock.adobe.com
英国放送協会(British Broadcasting Corporation)という名前よりも、略称「BBC」の方がなじみがあると思います。頭文字を1文字ずつ四角形に入れたロゴが登場したのは1950年代です。その後もデザインのリニューアルは何度もおこなわれましたが、3つの四角形と「BBC」という基本的な構成は今も変わりません。
英国では1998年にデジタル放送が開始されました。BBCはそれに先立って、ロゴのリニューアルを含めてブランドの刷新を検討します。
BBCは、放送チャンネルやサービスを複数持っていましたが、それぞれのロゴのテイストが異なっていたため、統一のブランドデザインを構築し直す必要がありました。
また、それまで使われていたロゴは、ヘルベチカの極太のイタリック体で、右に傾いたひし形に入れられていたのですが、テレビ画面との相性も悪かったのです。斜めの線がきれいにでなかったり、「B」のカウンターがつぶれ気味になったり、ひし形の下の色の線がとんでしまったりしていました。
1997年に登場した新しいロゴは、ひし形の代わりに正方形を使い、ラインの見え方を改善しました。書体は、カウンターの大きなギル・サンズを採用します。ひし形の下の線は取り去りました。バラバラだったグループ内のロゴも全面的に手直しされます。
デジタルへの対応を目的として、全面的なブランドリニューアルが2021年におこなわれました。ロゴタイプについてもギル・サンズに代わって「BBCリース・サンズ(BBC Reith Sans)」というカスタム書体が使われています。
マーガレット・ハウエルのロゴ(英国)
英国サリー州出身のデザイナー、マーガレット・ハウエル氏が創業したブランド「マーガレット・ハウエル(Margaret Howell)」のロゴタイプもギル・サンズです。
バザーで出会った1枚の古着にインスピレーションを受けたハウエル氏が作ったメンズシャツは、上質な生地とゆったりとした着心地を特徴としていました。ミニマリズムの考え方が今ほど一般的でない70年代初頭のことです。80年代にはレディースも手がけるようになり、日本市場にも進出して人気を博します。
字間をたっぷりとり、大文字だけで組んだロゴは、シンプルで上質なマーガレット・ハウエルの製品にマッチしています。「伝統を大切にしながら、時代を感じ取り、物作りに反映させる」というハウエル氏の姿勢にふさわしいデザインです。
トミーヒルフィガーのロゴ(米国)
・トミーヒルフィガーのロゴ / OceanProd – stock.adobe.com
米国のファッションブランド「トミーヒルフィガー(Tommy Hilfiger)」は、ファッションデザイナーのトミー・ヒルフィガー氏が1985年に創業しました。東海岸のプレッピースタイルと西海岸の気軽さをブレンドした「クラシック・アメリカン・クール」を特徴としています。
ロゴマークの3色フラッグは、ヒルフィガー氏が海好きであることから生まれました。海上で船舶間の通信に旗を使う世界共通の方法があります。この国際信号旗にはアルファベットの文字を示す26種類の旗も含まれています。ヒルフィガー氏のフルネーム、トーマス・ジェイコブ・ヒルフィガーの頭文字「T」「J」「H」を示す3つの旗を組み合わせて作られたのが、3色フラッグロゴです。たとえば、ロゴの白と赤の部分は「H」を表しています。
・トミーヒルフィガーのロゴ / slyellow – stock.adobe.com
また、この3色は星条旗に使われている色でもあります。アメリカのブランドであることを主張していると考えられています。ロゴタイプの書体ギル・サンズが英国発祥であるのがおもしろいところですが、これは書体ギル・サンズの普遍性を示す一例であると考えるのが正しいかもしれません。
トミーヒルフィガーは、ミュージシャンやアーティストなどポップカルチャーと強く結びついたプロモーションにも熱心です。また、F1のスポンサーを務めるなど、スポーツやエンターテイメントをとおしたブランディングを積極的におこなっています。
ベネトンのロゴ(イタリア)
・ベネトンの旧ロゴ – Claudio Divizia – stock.adobe.com
イタリア北部の都市トレヴィーゾで1965年に創業したアパレルブランド「ベネトン(Benetton)」は、1984年からスタートしたセンセーショナルな広告シリーズで世界中の注目を集めました。自社製品を一切見せず、人種差別、宗教問題、HIVといった世界的な社会問題を、挑戦的なビジュアルで表現し、ブランドを強烈に印象づけたキャンペーンです。
・ベネトンのシンボル – Cerib – stock.adobe.com
ニットの編み目をモチーフにしたシンボルマークもユニークですが、「United Colors of Benetton(ユナイテッド・カラーズ・オブ・ベネトン)」というブランド名にも強いメッセージが込められています。これは、1989年から展開された広告キャンペーンのキャッチフレーズをブランド名に採用したものです。
・ベネトンの新ロゴ – OceanProd – stock.adobe.com
このグリーンのボックスに白抜きでレイアウトされたロゴタイプもギル・サンズでしたが、2011年にカスタム書体「Benetton Regular」に変わりました。全体に印象は似ていますが、「R」「S」などに違いがあります。
アップル・ニュートンのロゴ(米国)
米アップル社は、スタイラスペンで手書き入力できる携帯情報端末(PDA)を提供していたことがあります。のちのiPhoneやiPod touch、iPadなどの源流のひとつとも言えるこの製品は、1993年から1997年まで「MessagePad(メッセージパッド)」の製品名で販売されました。一般的には、搭載されていたOSの「Newton(ニュートン)」の方が呼び名として使われていました。
このニュートンのシンボルマークは、アイデアがひらめいたときの象徴である電球をモチーフとしたものです。手書きのイラストが使われていますが、おそらくは、手書き入力をアピールする意図があったと考えられます。
このシンボルマークに組み合わされたロゴタイプにはギル・サンズが採用されました。ギル・サンズに特徴的な「e」や「t」を見ることができます。ニュートンが目指していた人間的で先進的なインターフェイスに対して、ロゴタイプの方は、きっちりときまじめな感じです。高度な技術や信頼性を表そうとしているように思います。製品本体には、レトロな虹色のアップルロゴに並べて製品名が配置されていますが、これもギル・サンズです。
彫刻家エリック・ギルが生み出したヒューマニスト・サンセリフ
彫刻家エリック・ギル / via Wikipedia
書体「ギル・サンズ」は1928年にモノタイプ社からリリースされました。同社から書体デザインを依頼されたのが、彫刻家のエリック・ギルです。ギルは、彫像だけでなく、碑文や木版画、著述などを数多く手がけた芸術家でした。BBC本社ビルの外壁に飾られている、シェイクスピア作品をモチーフとした彫刻も、ギルが1930年代に製作したものです。
ロンドン地下鉄と書体「ジョンストン」
ギル・サンズを語るうえでは、書体「ジョンストン(Johnston)」について触れておく必要があるかもしれません。これは、カリグラファーのエドワード・ジョンストン(Edward Johnston)が、ロンドン地下鉄のサインシステム用に作り出した書体で、1916年に導入されました。はじめは「アンダーグラウンド(Underground)」と名づけられましたが、のちに作者の名前で呼ばれるようになります。また、赤の円(ラウンデル)に青いバーを組み合わせたロンドン地下鉄のロゴタイプもジョンストンの作です。
書体ジョンストンの特徴のひとつに、i、jのドットがトランプのダイヤマークのようなひし形になっているというものがありますが、ここにはジョンストンのカリグラフィーのスタイルが影響しています。ジョンストンは古代ローマの碑文のプロポーションを持つ風格のあるサンセリフ体です。「最初のヒューマニスト・サンセリフ」ともいわれています。
「モダン・カリグラフィーの父」といわれているエドワード・ジョンストンは、アーツ・アンド・クラフツ運動の推進者でもありました。ロンドンの中央美術工芸学校(London Central School of Arts and Crafts)でレタリングを教えていましたが、エリック・ギルもその生徒のひとりでした。
書体フーツラの英国版対抗馬として
1920年代にさまざまなサンセリフ書体が登場します。なかでも、フーツラ(Futura)やエルバー・グロテスク(Erbar Grotesk)など、ドイツで生まれたジオメトリック・サンセリフ書体が英国にも紹介され始めました。モノタイプ社は、それに対抗するあたらしい書体が必要と考えました。
モノタイプ社のアドバイザーをしていたタイポグラファーのスタンリー・モリスン(Stanley Morison)は、ロンドンから170キロ離れた港湾都市ブリストルで、書体ジョンストンに似た文字を見かけます。それは、エリック・ギルが友人の書店のために作った看板でした。以前からギルと知り合いだったモリソンは、新書体のデザインをギルに依頼します。ギルは、書体ジョンストンをベースとしてデザインすることにしました。
書体ジョンストンはロンドン地下鉄のコーポレート書体であり、ほかでの使用は制限されていました。ウェイトも「オーディナリー」と「ヘビー」の2種類しかありません。また、ギルは、誰にでも使える書体にするには、ジョンストンの文字のいくつかには改良が必要だと考えていました。ギルの書体は、1928年にモノタイプ社から「ギル・サンズ」としてリリースされます。
世界最速の蒸気機関車を飾ったギル・サンズ(Gill Sans)
Electric Egg Ltd. – stock.adobe.com
リリースされた翌年には、当時の英国の4大鉄道のひとつ、ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道(London and North Eastern Railway)の公式書体として採用されます。駅名標示、駅構内案内標示、車両銘板、時刻表などに広く使われました。同鉄道の「マラード(Mallard)」号は、蒸気機関車の世界最高速度である時速203kmを記録しました。その車体を飾っていた銘板の書体もギル・サンズです。
なお、ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道は1948年の国有化によって解散しました。ロンドン・ノース・イースタン鉄道(London North Eastern Railway)という、頭文字が同じで、よく似た名前の新会社が2018年に運行を開始しましたが、ここで紹介した「LNER」とは別会社です。
時代を超えて使われている書体
写真植字(写植)が1960年代に普及します。金属活字にはできない書体デザインや文字の変形がおこなえる写植はグラフィックデザイナーには魅力的でした。サイケデリックアートやフラワームーブメントのおこった時代でもあり、デザイナーたちは盛んにあたらしい書体を作り出し、奔放に変形を加えたグラフィック表現をおこなうようになります。ロックやジャズといったアルバムのアートワークからもそれはうかがえます。
そんななかで、横断歩道を4人のメンバーが並んで渡る写真を使ったザ・ビートルズのアルバム『アビー・ロード』が1969年にリリースされました。レコードジャケットのオモテ面にはバンド名もアルバムタイトルも表記されていません。ウラ面の塀の写真には、タイトルと同じ番地表示と、それに似せたバンド名が合成されています。ジャケット下部に印刷されている収録曲リストの書体はギル・サンズです。
『アビー・ロード』をデザインしたのは、ジョン・コッシュ(John Kosh)氏です。英国のグラフィックアーティストでアルバムカバーデザイナーのコッシュ氏は、1960年代末から2000年代の初めまで、英国、米国のメジャーなロックアーティストのアルバムジャケットを数多く手がけてきました。それらの多くででギル・サンズを好んで使っています。コッシュ氏は、アルバムのアートワークで3度グラミー賞を受賞しました。
コッシュ氏のアートワークは世界中のひとびとの目に触れました。コッシュ氏以外のグラフィックアーティストたちも徐々にギル・サンズを使い始めます。第二次世界大戦も思い起こさせる古い書体だと避けられる時期もあったギル・サンズですが、70年代から80年代にかけてふたたび人気を取り戻し、美しく読みやすい書体として現在でも広く使われています。
古代ローマン体の風格とカリグラフィーのぬくもり
・ギル・サンズとその他のサンセリフフォントの比較 / Blythwood (CC BY-SA 4.0)
ギル・サンズの大文字は、古典的なローマン体の骨格を持っています。いずれの文字も長方形におさまるようなプロポーションです。また、スリムな「L」「S」「T」などと、ワイドな「O」「N」などとの幅のコントラストが大きいのが特徴です。この点では、モノタイプ社がライバル視したフーツラと共通しています。
ギル・サンズの小文字は、中世の筆記体で欧文小文字の元となったカロリング朝小文字体がベースとなっています。手書きのカリグラフィーのように1文字1文字作り上げられた文字は、それぞれが人間味のある個性をまとっています。フーツラの小文字は図形的なアプローチでデザインされているので、ここがギル・サンズと大きく異なる点のひとつです。
大文字であっても、たとえば「R」のレッグはフーツラでは直線ですが、ギル・サンズでは独特のカーブを描いていて、太さが微妙に変化しています。また、「Q」のテールの処理にもペン字のようなニュアンスがあります。
小文字の「t」は、ステム上端とクロスバーが三角形になっています。これもギル・サンズの特徴としてあげられることが多いです。「2階建のa」「2階建のg」は、手本としたジョンストンを踏襲してますが、細かい部分で手が加えられています。ジョンストンではダイヤだった「i」「j」のドットは、丸に変えられました。
ジョンストンの大文字アイ「I」は、ほぼ直線です。アラビア数字の「1」は、くちばしのかわりにステムの上部が斜めにカットされていて、小文字エル「l」には曲がったテイルがあります。これによって、この3文字は区別しやすくなっていました。一方、ギル・サンズではこの3文字は、微妙な違いがあるとはいえ、ほとんど同じに見えます。
「Gill Sans(ギル・サンズ)」の発音について
書体名「ギル・サンズ」は、エリック・ギルの作ったサンセリフ書体であることからつけられた名前です。サンセリフ(sans serif)の「sans」は、もともとはフランス語の「~がない」という意味で、英語の「without」に相当します。
「サン・セリフ(sans-serif)」という単語は、英語でも「sans」はフランス語風に「サン」と発音します。しかし、ギル・サンズ(Gill Sans)の「Sans」は英語では「サンズ」のように読まれることが一般的のようです。
【参考資料】
・トニー・セダン 著、長澤忠徳監 訳、和田美樹 訳『20世紀デザイン グラフィックスタイルとタイポグラフィの100年史』、東京美術
・大谷秀映 著、『The Helvetica Book ヘルベチカの本』、エムディーエヌコーポレーション
・ピーター・ドーソン 著、手嶋由美子 訳『街で出会った欧文書体実例集』、ビー・エヌ・エヌ新社
・小林章 著、『欧文書体』、美術出版社
・小林章 著、『フォントのふしぎ』、美術出版社
・Gill Sans® Font Family Typeface Story | Fonts.com (https://www.fonts.com/ja/font/monotype/gill-sans/story)
・Gill Sans – Wikipedia (https://en.wikipedia.org/wiki/Gill_Sans)
・Eric Gill – Wikipedia (https://en.wikipedia.org/wiki/Eric_Gill)
・エリック・ギルのタイポグラフィ – 多摩美術大学美術館 (https://www.tamabi.ac.jp/museum/exhibition/111217.htm)
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